SSブログ

八重の桜 あらすじネタバレ(最終回 50話) 12月15日放送


Sponsored Link
八重の桜 最終回 50話のあらすじネタバレはこちらです。

日清戦争勃発から3ヶ月ほど経った1894(明治27)年11月、広島陸軍予備病院にて、八重
は負傷兵の手当てと看護の陣頭指揮をとっていました。

敵味方の区別なく搬送されてくる負傷兵の手当にあたる八重に反感を持つ衛生兵も少な
くありませんでしたが、司令官・大山巌(反町隆史)の訓示「傷を受くる者は仁愛をも
って助けよ」を楯に、八重は自分のやり方を貫く。

巌は陸軍第二軍を率い、遼東半島の全川城を陥落させた後、その勢いに乗って清国艦隊
が集結している旅順陥落にも成功しました。

旅順陥落によって日本軍の優勢が確実となった1895(明治28)年3月、日本からは伊藤博文
(加藤虎之介)が、清国からは李鴻章がそれぞれ全権大使となり講和会議を開催。

同年4月に下関の地で講和条約が発効し、日本・清国ともに朝鮮半島の独立を承認、日本
は遼東半島と台湾が割譲され、加えて多額の賠償金を得ることになりました。

しかし、講和条約が発効からわずか1ヶ月後に、ロシア、ドイツ、フランスによる三国干
渉で、遼東半島の返還を強要された屈辱に対する日本国民の怒りが爆発することになり
ました。

その翌年、1896(明治29)年の夏、八重の母・佐久(風吹ジュン)が永眠、同じ時期に久
栄(門脇麦)と登美もこの世を去って行きました。

その頃、八重は茶道に没頭、裏千家家元・圓能斎に師事していました。一服の茶を点て
人と人との垣根を取払い相手と向き合う茶室の空間に、八重はいい知れぬ喜びを覚えて
いました。

そんな心の静けさを愛でる日々の中、八重に勲七等宝冠章授与の話が内閣賞勲局よりも
たらされます。広島陸軍予備病院での八面六臂の働きぶりが高く評価された由。

山川家、そして会津の人たちはこの報に接し大喜びしますが、その会津の完全な名誉回
復を世に知らしめる「会津戦記」の完全版『京都守護職始末』の完成と孝明帝(市川染
五郎)より賜った御宸翰と御製の公表。

この二つを浩(玉山鉄二)は、弟の健次郎(勝地涼)に託して1898(明治31)年2月4日、
生涯を閉じました。

浩が会津の名誉回復の夢を後世に託して永眠したその年の3月、徳川慶喜(小泉孝太
郎)が明治帝に拝謁して名誉回復を遂げました。慶喜は勝海舟(生瀬勝久)にこれまで
の尽力を感謝するも、かつて会津を見捨てたことを深く後悔しているのでした。

その頃、会津松平家に御宸翰と御製が保管されていること、それら二点とともに『京都
守護職始末』の公表が計画されていることを巌は耳にしました。

巌は、内憂外患に苦悩している国家の安定を図るため当面の公表を控える旨を、健次郎
に願い出るも、健次郎は慶喜のみ名誉回復を遂げ、会津の名誉回復の実現できないのは
理不尽であると拒否。

巌と健次郎の間で話し合いの平行線が続く中、それを見かねた巌の妻で、健次郎の妹で
もある捨松(水原希子)が二人の間を取りなし、最後は健次郎が不本意ながらも折れる
ことになりました。

しかし、それから10年を経た1908(明治41)年、会津松平家が所有する御宸翰と御製、そ
して『京都守護職始末』が公表され、晴れて会津の名誉は完全な回復を遂げることにな
りました。

八重は故郷の会津に里帰りをし、懐かしい思い出のある桜の木の下で、かつて会津藩家
老だった西郷頼母(西田敏行)との再会を果たしました。

八重と頼母は来し方を振り返り、お互い心に思うところを話し合う中、八重は先の受勲
が日清戦争によるものであることに複雑な思いを持っていることを吐露。そんな八重に
頼母は言葉をかけました。

「八重、にしは桜になれ」

そして二人は桜の木とその上に広がる青空を見上げて、この国の将来への想いを馳せる
のでした。




2014年の大河ドラマは軍師官兵衛です


共通テーマ:テレビ | nice!(0) | コメント(0) | トラックバック(0) | 編集

Sponsored Link

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました
Copyright © 軍師官兵衛 キャストあらすじ感想ネタバレ 【まとめ】 All Rights Reserved.
当サイトのテキストや画像等すべての転載転用・商用販売を固く禁じます

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。