小寺政職(まさもと)は官兵衛の最初の主君ですが、どういう人物だったんでしょうか?
似たような名前が続くので整理すると
主君 小寺 政職(まさもと) 片岡鶴太郎
家老 小寺 職隆(こでらだ もとたか) 柴田恭兵
↓跡を継ぐ
小寺 官兵衛孝高 (こでら よしたか) 岡田准一
ということになる。
片岡鶴太郎の役の名前と柴田恭兵の役が似ていてややこしい。
柴田恭兵が演じる小寺職隆(もとたか)は職(もと)の字をもらったから似ているのである。
しかも名字が小寺で同じだからややこしい。これも本当は黒田というのが正しい名字であったが、主君が黒田一族を高く評価して、小寺姓を名乗るのを認めたからである。
小寺政職(まさもと)
御着城主・小寺氏は、もともと播磨国佐用庄の地頭で、室町時代に播磨守護となった赤松氏の一族。
1545年、小寺則職は家督を嫡男の小寺政職(まさもと、片岡鶴太郎さんが演じる役)に譲って引退。御着城主は、代々「藤兵衛」と呼ばれたそうです。
、
有能な人材を多く登用したとも言われ、その人材登用に黒田職隆・黒田孝高(黒田官兵衛)と言った武将も含まれていました。
小寺政職の正室はお紺。
やがて、東から織田信長、西から毛利氏の勢力が伸びてくると、家老・黒田官兵衛の助言に従って一旦は織田信長に味方した。
毛利家の部将・浦兵部宗勝が率いた5000を、小寺政職は1000で撃退することに成功し、織田信長から感状も与えられいる。
しかし、三木城の別所長治の毛利方への寝返り、摂津・有岡城主の荒木村重の反乱などに動揺した小寺政職は、 黒田官兵衛の言を入れず毛利方に寝返った。
三木城・有岡城が相次いで陥落すると、1579年、織田信長の嫡男・織田信忠は10000で御着城を攻撃開始。小寺政職は奮戦したが御着城から逃亡し、毛利氏を頼った。
しかし、毛利氏の吉川元春に小寺政職は拒まれて、備後の鞆と言う土地で没したとも伝わるが、小寺氏は没落したと言える。
なお、小寺政職の子・小寺氏職は黒田官兵衛が養育し、のち黒田長政に仕えて、福岡藩士として続いたそうです。
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